花祭はいつからあるの?
花祭の起源を明確に語る史料はありません。
花祭に強い影響を与えたのは、吉野・熊野の修験道ですが、修験道自体は平安末期から鎌倉初期に最盛期を迎え、鎌倉末期には地方に定着するようになります。
彼ら修験者が求めた修業の場所は道険しく人跡を絶つほどの深山幽谷の地であり、奥三河の山河はその理想郷であったようです。ある一団は東から天竜川をさかのぼり、またある一団は西から峰伝いにこの地へ入っていきました。修験道は庶民の間にも理解され、次第に根を張っていったのです。こうした修験者たちから花祭はもたらされたといわれています。
花祭の持つ宗教性が、鎌倉・室町時代に活躍した修験者たちの宗教性と相通ずることから、祭りがはじまった時期を、修験者たちが遊行・布教を行った約700年前と推定しています。
花祭何のためにするの?
現代の花祭は一言でいえば祭り場に招いた神々に酒食と舞を献じて種々の願いを奉じる、立願の祭りと言えます。確かにそうなのですが、祭の本質的な部分にはもっと奥深い宗教性があります。
なぜ真冬に・・・
花祭は霜月祭ともいわれ、もともとは旧暦の霜月に行われていました。新暦の12月から1月ごろにあたり、一年で最も寒さの厳しい時期です。実は花祭はこの時期に行うからこその意味があるのです。
花祭の象徴である榊鬼は、その所作の中で「反閇」という大地を足で踏みつける所作を繰り返します。また、花の舞や四つ舞など多くの舞で「へんべ」という所作を繰り返します。これは修験道に取り入れられている陰陽道の呪法のひとつで、大地の精霊を呼び起こす法力があるとされています。
つまり、真冬となって地中に沈み込んだ精霊たちを、この祭りを行うことによって呼び覚まし復活させる「再生」の意味を持ちます。祭の奥深くには、一度生気を失ったものを復活させる「疑死再生」の考え方があったのです。この思想がやがて人間の魂の復活を願う「生まれ清まり」の概念へとつながり、花祭の根本理念となったのです。
花祭の‘花’って?
地元では、この祭りを指して単に「ハナ」とだけ呼んでいます。
学問の間では、
- 成りものの先ぶれである花の出来を祈る祭り説
- 稲の花を指す説
- 花山権現を祭る説
- 死後浄土再生説
- 年の初めの祭り説 など諸説あるようです。
- 成りものの先ぶれである花の出来を祈る祭り説
- 稲の花を指す説
- 花山権現を祭る説
- 死後浄土再生説
- 年の初めの祭り説 など諸説あるようです。
花祭の根本思想は「生まれ清まり」であり、それを示す古文書をひも解くと、生まれ清まりのために浄土へ渡り、大法蓮華の花を手にする旨が記されています。
現代においても祭場全体が浄土を表しているものともいわれており、願主が祭りの一切を負担して「一力花」という模造の花を手にするかつての宿花の形式や、複数の願主が「一力花」や「添花」を手にする現代の祭りの姿にも十分通じるものがあり、このことから花祭の花は浄土に咲く大法蓮華の花と考え、この花を手にして、再生した新たな命を「花」ととらえています。
一番の見どころは?
やはり一番の見どころと言えば、‘鬼の舞’でしょう。
鬼とともに、町の人も観光客も、囃子声をあげながら一体になって体を動かして、お祭りを盛り上げます。
そのあとの‘湯ばやし’もクライマックスの一つ。
舞子が釜の中の湯を振りかけまわりますが、この湯を浴びると、一年間健康で過ごせるという言い伝えもあります。
花祭に関わる人たち(役)を教えて!
太夫
花祭の祭祀者で、神事の一切を司ります。
神事の場面では長大な祭文を唱え、多数の作法を行って神々を祭ります。
宮人
太夫の補佐役で6~7人が務めるところが多い。太夫とともに神事にあたります。
囃し方
笛や太鼓、歌ぐらといった音楽の部分を担う人たち。
特に太鼓は、舞をリードするので、舞式のすべてを熟知している人が叩きます。
部屋番
「部屋」という支度部屋にいて、舞い手の着付けや鬼の面付けなどを担当します。
祭りの進行係とも言うべき役割を担います。
セイト衆
舞庭に渦巻く観衆。「テホへ」に代表されるかけ声と歌ぐらで舞手を励まします。
花祭は悪態祭りとも言われ、この日ばかりは、どんな悪態をついても許されます。
ほろ酔い加減のセイト衆がつく軽妙な悪態ぶりは、舞庭に笑いを引き起こし祭りを盛り上げますが、近頃は名人と呼ばれる人が少なくなりました。